指数関数の公式 がありますが,行列のように が可換でないときにはこの公式は成り立ちません. がどのようになるかを教えてくれるのがBaker–Campbell–Hausdorffの公式(BCH公式)です.(正確には,式を陽に書き下したディンキンの公式を扱います.)証明はかなり難しいです.
一方,Mould解析というÉcalleが開発した理論があります.Mould解析では組み合わせ論的にややこしい式変形をうまく扱うことができるMould展開を導入します.このMould解析を使えば,BCH公式も簡単に証明することができます.(そのぶんMould解析の公式の証明は難しいです.)Mould解析は多重ゼータ値などにも応用することができます.BCH公式の証明を通してMould解析を親しむというのがこの記事の目的となります.
このような事情から,BCH公式の証明は簡単になるぶん,Mould解析を理解するというところは難しいです.BCHを示すことだけが目的ではトータルで簡単になるわけではないことに注意してください.
また,Mould解析を理解するためには形式ベキ級数の理論を勉強しておくと良いでしょう.議論も非常に似ているからです.
この記事は以下の論文を参考にしています.この論文ではディンキン公式以外の公式も証明しています.
Lie, Sauzin, Sun, "The Baker-Campbell-Hausdorff formula via mould calculus"
また,本記事では公式や定義に独自の名前をつけているものがあるので注意してください.
BCH公式(ディンキン公式)の復習
を体 上の非可換代数で単位元を持つものとする.このとき, に対して, がどのようになるかを考えていく.ただし,このままだと級数の収束性が問題になることも多いので,変数 を導入して, を考えることにする.つまり,形式ベキ級数環 で考えることになる.
と書いたときの を求めたいわけなので, を計算していくことになる.結論を言うと,
のようになり,リー括弧 が高次項に現れ, のような生の積が現れない形で書けることが知られている.これをBCH公式と呼ぶこともある.
さて,全ての高次項を陽に表した公式としてディンキンの公式が知られている.
を 以上の整数, を 以上の整数とする.
ここで,和は全ての と を動くとし, であり,
と定める.
ディンキンの公式は見ただけでは分からないので,手で計算して確かめてみよ.また, の定義が分かりにくいが,別の表現を採用しているものもあるので,分からなければ適当に調べよ.例えばWikipediaでは少し違う表現をしている.
今回の目標はこのディンキンの公式を示すことである.この公式を示すためにまずMould解析を説明する.
Mould解析を全く知らない人は,まずディンキン公式の証明の式変形だけざっと目を通し,どのような議論をするかを確認することをオススメする.
Mould解析
ワード,mould,comould
ワード
まず一般的な定義をする.空ではない集合 を固定しアルファベットと呼ぶ.アルファベットとして有限集合や を取ることが多い.アルファベット の有限列の集合 をワードと呼ぶ.つまり,
である.式でアルファベットとワードを見違えがちなので,アルファベットの元は ,ワードの元は とアンダーラインで必ず区別するようにする.ワード の長さを と表すことにする.注意としては,空集合 もワードであり,その長さは である.
記法として,ワード の後に が続くワードを と表すことにする.また,アルファベット が 個続くワードを と表すことにする.
mould
次にmouldを導入する.体 とアルファベット を固定する.mouldとは,ワード から への写像のことである.つまり,mould のなす集合とは である.mould に を代入したものを と表す.
BCH公式を考えるときには とし,mouldは公式の係数の出現の仕方を表すことになる.
さらに,mould の積 を以下で定義する.
少し分かりづらいので例を挙げておくと, の長さが で と書けるときは
であり, の長さが で と書けるときは
となる. 個の の積 を と表すことにする.この演算 により,mouldの集合 には 代数の構造が定まる.mould を
と定めれば, が の単位元となる.
指数と対数
mould の位数を となる最小の長さ とし, と表す.簡単な計算から,
が分かる.よって,位数が 以上のとき,つまり, のとき,
となる.これにより, のmould に対しては指数と対数を定めることができる:
となる.これでは無限和が出てきて定義がうまくいかないように見えるかもしれないが, の仮定により,任意の に対して, や に現れる非ゼロの項は有限項しかない.
ちなみに, の場合の場合には対数 とは
のことを意味することになる.
形式ベキ級数の場合と同様に,
が証明できるが,ここに現れる積 は非可換なので,計算には注意が必要である.
同様に, に対しても指数と対数が定義できる.ここで,単項式 の係数の計算には有限和しか出ないため,無限和の問題は起こらない.(これは形式ベキ級数の理論の枠組みで解決できる話である.)
mould展開
さて,mould解析においても最も重要なmould展開を導入します.mould に対して,
と定める. の元をあるmould を用いて と表示することを,mould展開と呼ぶ.
簡単ではあるが,以下の公式は非常に重要である.
mould に対して以下が成り立つ.
特に,
この公式により, となるmouldに対して以下が成り立つ.
シャッフル数
さて,一見関係なさそうなシャッフル数を導入する.私も最初イメージがつかなかったので,少しずつ説明する.
トランプを二つの山 に分けた状況を想像しよう.そのとき, を左手, を右手に持ち,机の上でパタパタと混ぜるシャフッルの仕方を想像しよう.これをリフルシャッフルというらしい.イメージできない方は調べて欲しい.このとき, と は混ざるが, のカード同士の順番と のカードの順番は保存されている.このようなシャッフルの仕方の場合の数を考える.
もう少し数学的に説明する.一般の並べ替えは,対称群 の元 により,
と定まる.今は,二つの組みをそれぞれの順序を保ったままシャッフルすることを考えることである.
長さ のワード が と のシャッフルであるとは,ある置換 が存在して, として,
かつ
が成り立つことである.このような置換 の個数をシャッフル数と呼び, と表すことにする.
ワード の中に同じアルファベットがなければ,トランプのシャッフルを考えれば分かるように, のシャッフル のシャッフル数は である.しかし,アルファベットに重複がある場合はややこしい.例えば, つのアルファベット があるとき,
のようになる.
BCH公式を証明する上でシャッフル数の具体的な値を使うことはないが,補題を証明するときに以下の関係式が必要となる.
証明は最後の節で行う.
アルターナルとシンメトラル
mould解析の便利な公式は,以下で紹介する概念アルターナルとシンメトラルによって実現されていると言える.
mould がシンメトラルであるとは, であり,任意のワード に対して,
が成り立つことをいう.
以下の補題が重要である.
証明はそれほど簡単ではない.dimouldを導入すると証明が簡単になるので,最後の節で付録として与えることにする.ちなみに,シンメトラルの積がシンメトラルであることは,シャッフル数の公式から簡単に証明することができるので,確かめてみよ.
Lie-comould
ここまでの議論だけでは,リー括弧が扱えていない.BCH公式とは展開の中の積がリー括弧だけになるというのがポイントである.そのために,comouldのリー括弧バージョンであるLie-mouldを導入する.Lie-comouldとはワードから への写像 であり,
と定めたものである.
mould展開のLie括弧バージョンであるLie-mould展開を以下で定める.
本質的に以下の公式によりBCH公式が成り立つことが分かる.
をアルターナルなmouldとすると, である.
つまり,展開のmouldがアルターナルなら,mould展開とLie-mould展開は一致している.
ディンキンの公式の証明
ディンキンの公式の証明を行う.
アルファベットを元が二つの集合 とする. として mouldを考える. を 代数の元とする.(行列と考えればよい.)このとき, としてcomouldを定める.
ワード が のとき ,それ以外のとき としてmould を定義する.同様に, のとき ,それ以外を として mould を定義する.すると, は とmould展開できる.よって, となる.よって,結合公式により,
となるから,BCH公式は
を考えることになる.
ここで, はアルターナルである.
( 実際, であり,空でない に対して, となる は長さが 以上だから,
となる.)
同様に もアルターナルである.よって,補題より はシンメトラルなので もシンメトラル, がアルターナルであることが分かる.
がアルターナルなので,mould-Lie-mould公式により,
となる.ここまでで, がリー括弧で書けるところまでは示すことができた.
最後に, を定義通りに書き直すと,ディンキン公式であることが分かる.
まず, とおく. は のとき ,それ以外のとき である. も同様.よって, は のとき, であり,それ以外のとき となることが分かる.よって,
ここで, が非零となるのは, の定義から,それぞれの が と書けるときであるから,
となる.ここで,和は全ての を動くとし, である.最後に, の定義に従って書き直せば,
はディンキン公式になっている.
残していた性質の証明
以下はそのうち完成させます.
シャッフル数の公式の証明
dimouldと補題の証明
mouldとは一つのワード に対して の値を決めるものであった.一方,アルターナルやシンメトラルの定義に現れる
という式は,2つのmould に対して を定めるものである.このような写像 をdimouldと呼ぶ.dimould に対しても積 を
と定める.mould から dimould への写像 を
と定める.すると以下が成り立つ.
証明.線形性は明らか.
を示す.シャッフル数の関係式を使うと以下のように計算できる.
よって証明ができた.
次に, つのmouldのテンソル積 を と定める.すると以下が成り立つ.
証明は定義通りの式変形
この補題から特に,
である.
さて,アルターナルの定義において, のどちらかが空のときに条件を課していないが,定義通りに計算してみると,
となる.よって,アルターナルであることは
と書き直すことができる.シンメトラルも書き直すことができて,以下の補題を得る.
証明.
がシンメトラルと仮定すると,
よって, もシンメトラル.
まず,
に注意する.可換な に対しては, となることに注意して, がアルターナルとして計算すると,
となり, はシンメトラルになる.
をシンメトラルとして, とおく.
であり, なので,
よって,
ここで,
であり, は可換なので,
であり,展開すれば指数のときと同様に,
が分かるので,結局
となるから, はアルターナルになる.
mould-Lie-mould公式の証明
をアルターナルなmouldとすると, である.